戻る

 『江戸の図書館』
        〜NHK「道中でこざる」でおなじみの英輔師匠が現代を切る〜 
      講師 作家 石川英輔先生

この講演要旨をホームページへ掲載することについては
石川英輔先生の承諾をいただいています。
この講演要旨を転載、引用、加工使用することを禁じます。

 講師 作家 石川英輔先生<講演要旨>

石川でございます。旧軽井沢に疎開をしておりました。「信濃の国」は一番だけちゃんと歌います。

江戸には図書館は無いのです。けれども同じ機能のものはちゃんとあった。考えられないくらいに完備したものです。それは貸し本屋です。江戸の貸し本屋は、貸し本屋のほうから出向いてくれるのです。自分のところにない本を頼まれると、横のネットワークを使った。巨大な貸し本屋もあったので、そこへ借りに行って間に合わせたのです。

江戸には600軒を超える貸し本屋があった。大坂は大体300軒くらい。なぜそういう職業があったのか。

当時の人口は1820年8代将軍吉宗の時代に、2650万人くらいといわれています。ただそれは確かな数ではない。幕府の権威を持っても把握できない人口もあった。たとえば7歳以下の子どもを数えていない場合や、寺社人口を入れていない場合もあった。そういう事情を修正して3000万人前後であったと推定されています。

あの時代に、この狭い国にこの人口がいるのは世界的にみて大変なことであった。耕地面積からみても、フランス革命のときにフランスの人口は1300万人だったが食べられなくて革命が起こった。
日本の水田耕作は、日本の風土に合っていた。米は小麦と違って裏作障害は起きない。「江戸の飢饉」というがヨーロッパの飢饉とは比べものにならない規模だ。江戸はうまくいった時代だ。270年間のうち、餓死者がでたのは10年くらいのものだ。

なぜ同じ政権が270年も持ったのか、封建制度でがんじがらめになっていたというが果たしてそうだろうか。徳川家は平和政権だった。
江戸時代はほとんど役人がいない世だった。江戸時代が長く持ったのは、幕府が何もしなかったからだ。信じられないくらい何もしなかった。
町奉行所290人。同じ機能をもつ南町奉行所、北町奉行所を作って、これが交代で担当したので、機能しているのは145人。この人数で160万人の江戸市民を取り締まった。

家康が支配してからの16年間は町奉行すらなかった。町年寄りという役職を作って任せていた。町が大きくなると民間人だけでは対応できなくなって、16年経って、ようやく町奉行を作った。
”町奉行所”という専用建物を作ったのは、家康の支配後46年後。なんでそれで成り立ったのか、とにかく治安の良さが抜群だった。

明治10年くらいの東大の教授モース博士の日記。イリノイ州の友達から殺人事件が80人という手紙を受け取ったが、そのとき東京には殺人事件はなかった。東京は9年間で殺人事件は2,3件。ほとんど犯罪は無かった。
モース博士が広島に出張した。金皮の懐中時計とか現金を預かってほしいと、旅館の女中に依頼したところ、宿の主人が来ないので呼んで、金庫に入れてほしいと言ったら、このままでよいといわれた。鍵をかけることのできる障子や襖を見たことがない。この旅館の人たちを欧米の旅館へ連れて行ったら、盗まれないための方策に驚き喜ぶだろう。

これほど取り締まらなくてもなぜ成り立つのか。
ほとんどあらゆる問題を大家が解決していた。2万人を1人が、コントロールしていた。
町の帳簿が残っていてこれを見ることができるのだが、 行き倒れ、捨て子などは大家の管轄。捨て子は町の費用で育てた。完全に民間でやる。自分の家の前に捨て子があれば自分が育てなければと思う、そういう時代だった。町奉行所に報告はする。いかに安上がりの社会か。基本的に江戸はそういう社会だ。

江戸町奉行所、大坂の町奉行所の規模は大きかったが、他は藩の中で解決していた。とにかく事件が少ない国だった。記録も無い。

私も20歳になるまで、外錠前をかけた家に住んだことはなかった。昭和30年代ころになって初めて外錠前を付けた。それまでは必要が無かったのだ。

ところで、江戸の町奉行所の290人の中に寺子屋担当官はいない。
江戸の庶民教育は全く放任だった。日本人はどうしてもやってはいけないことだけを取り締まれば後は自分達でうまくやるのではないか。
市民行政の大部分は大家がすべてやった。大家は地主から給料をもらった。幕府は金を出していない。住民税は集めなくてすむ。妙な世の中だった。

学校行政については、福沢諭吉が著書で日本の識字率は一番高いと書いている。
なぜか。江戸の中でも1500軒の手習い(寺子屋)があった。それで世界一の識字率。
藩によっては規制をしたところもあったようだが、江戸をはじめ教育についてはほとんど放任。

政府は安上がりだった。学校に必要なものは先生。教室。理想を言えば教科書があればよかった。そもそも“幕府が庶民のガキの教育をしなくてはいけないか”という調子。

教科書も初めはなかった。 “商売往来”というようなものを木版で作った。何百種類もある。版権はない。「およそ商売取り扱うものは」という内容で自由制作。

各地域の地元の教科書も作られた。地元の教科書を作らなければ意味がない。内容は土地の名前や名産。これは手書きで子どもも写す。良いものは広まる。これほど売れるのならと江戸へ持って行って木版で印刷した。

教科書は自発的にできた。
農村では「百姓往来」。これには見たことの無い専用の漢字がでてくる。しかし最初からこんな難しいことを覚えたのではない。寺子屋に入るとお師匠さまの書いたいろはの手本をまねた。いろはといっても変体仮名で、”い”の字だけでも数種類あった。
まずお師匠様の手作り教科書でいろはを覚え、漢字の段階になると手作りでは間に合わなくなり、職種別の往来ができた。

こういう字のよめる人間が大勢いないと図書館つまり貸し本屋が成り立たない。
版権がないから自由に本を作ったことがわかる。人がコピーしてくれれば名誉だと思う感覚だった。

昔の教科書は子どもが持つのではなく、学校の備品。
昔は一斉授業ではない。入学式はない。いまほど全体意識に縛られることはなかった。字が書けるか書けないかだけの問題。自分の問題。規則はない、取り決めもない、法律もない、あっても誰も守らない。子どもはばらばらに入学して、子ども一人ひとりに応じた教育をした。当時の寺子屋の絵を見ても、子どもはあちこちを向いて好き勝手な格好をしていた。女の子はあやとりをしていたり、男の子はとっくみあいをしていたりする。一斉授業などできない状態。しかしこれは今で言うような学級崩壊ではない。先生は一人ひとり教えた。要するに手習い。

九九も載っている。平方根、立方根の解き方も載っている。そのとおり算盤をおいていくと時間はかかるが必ず答えが出る。

教科書の奥付を見ることで作った年がわかる。安永7年に作ったものを明治20年まで使っていたことがわかる。つまり、この明治20年に小学校制へ変わったのだろう。

教科書は丈夫にできていた。リサイクルするには手間もかかる。いつまでも使っていたほうが効果的だ。
今は産業を発達させるために廃棄させ新しいものを作っているのだが、これは何か変だ。ものを作って棄てたほうが儲かるという仕組みは変だ。

リサイクルの教科書ということでは、見返しをはがすと5次再生紙を使っている。分厚い表紙ほど再生の次数の進んだ本だ。女性の手紙文の本などはものすごい再生だ。初版本は全部新しいので薄くてぺらぺら。立派な本ほど再生されている。
教科書でも表紙の薄いものは再生回数が少ない。
1枚すきで厚いものをつくると型押しができないので、薄いものを重ねたのではないか。型押ししてやわらかいものを作るのには、この方法が良かったのではないか。こういう実用的な理由がある。結局高価なものほど再生度が高い。
現代の常識を当てはめて、江戸のリサイクルを考えると大間違い。江戸では古い紙を寄せ集めて高価な本を作っている。

江戸時代の出版の中心は京都。元禄時代になって初めて、江戸で出版業が盛んになる。錦絵は実に良くできている。現代でも再現が難しい。4色刷りでは再現できない。もともとは中国の縁起物で、中国では正月が過ぎると燃やしたが日本では残った。日本人がやるとものすごく精巧なものになった。

小説本のなかにきれいな挿絵がある。退色していないからキレイで資料性が高い。
しだいに小説の筋が複雑になってきて、23冊でひとつの小説、全頁挿絵入りというものもある。

製版本しか検閲しなかった。つまり木活字は検閲しなかった、へんてこりんな時代。
書き本も検閲外。大岡政談などは本来政治的な話で書いてはいけなかったものだが、手書きなので出回った。

城下町の中心地ではみな字が読めた。女性の就学率が高い。江戸は男が多く女が少なかった。慶応年間で初めて男女同率となった。男は職人になるため早く徒弟になって職を手につけたが、女性は一般的に高い教育を受けた。
女性の奥つとめは、教育の場だった。たんに働く場とは違った。娘は手習いを終えると上級武士の奥つとめをして、お行儀や和歌の作り方を覚えた。

ベストセラーとなった「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」。足利将軍家の話にしてあるが、絵は完全に江戸の絵。ここに団扇を6枚回す扇風機の絵が載っていたりする。
江戸の印刷技術はヨーロッパと違う。1枚のなかに好きなように字も絵も描く。ページ中マークを探してあっちへいったりこっちへいったりして読む。ひらがながほとんどで、漢字はほとんどなし。

よく借りられた本は本の汚れでわかる。表紙が真っ黒になり、擦れて字が読めないものもある。一流の絵師が絵を付けている。

出版技術も向上し、こんな精巧なものがよくできたと思うほどのものがある。
製紙、印刷、教育のすべてを含めたところに貸本屋がなりたっていた。

貸本屋は江戸時代の総合芸術。出版物を扱うだけでは満足できなくなり、一流の貸本屋は職人を抱えて読みやすい字を作った。
奥女中のそばで、おばさんが箱の中に本を入れている絵がある。つまり女性の貸本屋がいた。こういう奥まで貸本屋が入る。移動式図書館のようだ。遊女も読んだ。

貸本屋の図書館機能は注目に値する。江戸時代は、持っていなければ借りることができたのだ。

講演をお受けするまで貸本屋の図書館機能についてはあまり考えたことがなかった。

江戸時代は教育についての一貫する法律はない、教員免許もない、だけど世界一の識字率があってみんなが字が読めた。図書館はない。だけどお金を出してみんな本を借りて読んだ。学術書から小説まで、そこになければ上部組織の大きいところへ行って借りてきて本を読むというのが普通になっていた。そういうことが調べればわかる。

時間になりましたのでこれで終わります。

 

上へ